編集員通信


“テキ、早過ぎまっせ”

 11日、布施正氏が心不全のため死去された。告別式の行われたトレセン厚生会館分館ロビーは故人の人徳や、JRAに残した数々の偉大な業績、あるいは関係者の多くに与えた影響力の強さを推して知れるような式場に入り切れない何倍もの、最後の別れを惜しむ弔問客で溢れかえっていた。私が競馬記者としてスタートを切ったのは66年、阪神競馬場担当として配属を命じられ、仁川に居を構えた。最初の取材先が布施先生のところだった。岩元師が見習騎手として入門してきたのは翌年だった。

 今と違って、多くを語らないタイプばかりが揃っていた調教師相手の取材は悪戦苦闘の日々。そんな中で、話し上手であったし、協力的であったのが布施先生。「時代は変わった。明日の競馬発展のためには開かれたサークルでないとダメだ」と。もっとも、別名泣きの布施、記事にする談話は努めて悲観材料の方を強調する傾向にあった。が、根が嘘のつけない質だけに、隠しようもなく表情に出てくる。勝負の世界で生計を立ててきた人だ、弱気なはずがない。レース前日に刷り上がった新聞を持って厩舎に伺うと、口の先まで出かかったものを抑えに抑えていて溜ったストレスを、一気に吐き出すように口調は滑らか“これは勝てる。こっちは危ない”1頭1頭その根拠を理路整然と噛んで含める如くに懇切丁寧な解説をして下さる。競馬の専門知識を学んだ最高の師でもあった。

 小倉(夏期)へ出張されると必ず調教師寮に泊まられた。ホテル利用者が増加し、閑散とした寮にも“却って静かでいいし職場に近いのが何より”と頑なに宿を変えようとされなかった。華美を好まず、質素を旨とされている。娘婿として選んだ岩元師も、ジョッキー時代出張中は騎手寮から出ることがほとんどなく、厩舎か寮のどちらかに行けば必ず会えた。生真面目で仕事一本の人“類は類を呼ぶとは良く言ったもんですねェ”と茶々を入れても、温かい目差しでニコやかに受け流す。冗談の通じる懐の深さがまた、たまらない魅力の人だった。家は歩いて4〜5分の距離、引退後は、拙宅の玄関先で散歩中の先生としばしば顔を合わせることがあり、短い会話の中に楽しみもあった。“ここんとこご無沙汰やなァ、どないしてはんのかいな?”と思っていた矢先の訃報に呆然。まだ八十路にも至らぬ歳で鬼籍に入られるとは、言っても始まらぬが“テキ、早過ぎまっせ”。ただ、布施イズムの後継者は新川、岩元、柴田光師はじめ大勢おられる。どうぞ後顧の憂いなく心安らかにお眠り下さい。合掌

編集局長 坂本日出男

目次へ戻る

copyright(c)NEC Interchannel,Ltd/ケイバブック1997-2001