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「出られるいうだけで嬉しかった。代表馬に選ばれただけでも凄い名誉やった。だから、結果なんか全然考えてへんかった。無事に1周して、それで何頭か負かせれば十分やと思ってたから、レースが始まってもまあ気楽やった。直線向いたときに手応えがあったから、掲示板には載るかなって思ったぐらいや。先頭でゴールしたときはもう頭がボーッとして、2着馬や3着馬になにがきてたんか全然判らんかった。まるで夢でも見てるような感じやったが、まあ、俺も勝負強い人間やいうことやな」
1984年秋。日本馬が初めてジャパンカップを制した。上記のコメントは歴史的勝利を飾ったカツラギエースを管理する土門一美調教師のものである。当時は開業して丸三年がすぎたばかりの新進。その厩舎を担当していた記者としてカツラギエースの勝利は誇らしいものだったが、同時になんという強運の調教師なのかという思いもあった。日本馬が世界に通用する時代なんてそう簡単にくるはずがないと競馬サークルの誰しもが考えていた頃の話だったのだから。
「お〜い、村上。テレビ見とったぞ。ウチの馬のこと、熱心にプッシュしてくれとったな。お前の期待には応えられんかったけど、精一杯走ってあの結果やから、まあ、しゃあないな。もう長距離には出さんで中距離に絞って使っていくから、そのうちG1のひとつやふたつは獲ってくれるやろ。それとやな、テレビ局のディレクターに言っとけ。こんど特番を組むときはオレを主役に使えってな。お前らの出演では視聴率取れんやろから(笑)」
1989年秋。京都のテレビ局が企画した菊花賞の特別番組になぜか私が出ていた。タイトルはとっくに忘れ去り、30分だったか1時間だったか番組時間さえも記憶していないが、『競馬記者とはどんな人間か、そして彼らにとって予想(印)とは何なのか』といったテーマで作られたドキュメンタリー番組だった。この年の菊花賞にオサイチジョージという有力馬を出していた土門調教師が、そのドキュメンタリー番組をしっかり見ていたのだ。歯に衣着せぬ言葉やシニカルな表現を得意とする彼らしい突っ込みだった。そして翌年の1990年、オサイチジョージは宣言通りにG1の宝塚記念を勝った。
「おお、おお、いいところで会うたな。喉が渇いたから、新幹線に乗る前にちょっとビールでも引っかけて行こうや。小倉についたらちょうどいい時間になるやろし、それからはじっくり腰据えて飲むつもりやから、忙しいなんて言わんとお前もつき合えよ」
これはいまから十数年前。夏の小倉が開幕する週の金曜日。土門調教師と京都でばったり会ったときの話である。まだ陽射しがきつい時間帯のJR京都駅でビールを数杯飲み干し、新幹線では一度として席に坐ることなく食堂車で延々とウイスキーを流し込んだ。小倉についてからは料理屋、スナック、バーとはしご。気がついたら日付けが変わっていた。とにかく酒が好きで、酒量も半端なものではなかった。「もう少し量を減らした方がいいですよ」とアドバイスしたこともあったが、最初に肝硬変で倒れたのはそれから間もない頃だった。闘病生活がはじまってからは管理馬の成績が年々下降していったが、それは仕方のないことだった。
調教師として開業した当初からずっと担当していた縁があり、名前が同じ(一美と和巳)だったことも手伝ってなにかと声をかけてくれた土門調教師。当初は彼を強運の持ち主だと思い込んでいたが、その後は可愛がっていた所属騎手が事件を起こして廃業したり、全幅の信頼を置いていた調教助手が攻め馬の最中に脳卒中で倒れて帰らぬ人となったり。周囲で見守るだけでもつらくなる出来事が続いた。その晩年は強運というよりもむしろ悲運の連続だったようにさえ思える。日本の競馬史に新たなページを刻んだ人間だというのに、57歳での死はあまりに寂しい。調教師としてはまだまだ時間が残されていたのだから。
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競馬ブック編集局員 村上和巳
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