『競馬メディアのメディア今昔』
日曜の最終レースが終わって、午後4時30分に翌週の特別登録が出ると、わが編集部の忙しさはピークを迎える。現場から次々に送られてくるインタビューや次走へのメモをはじめとする原稿の処理に加え、特別レースの予想と検討文、騎乗予定騎手のチェック、ウェブ用原稿…と、それこそ猫の手も借りたいほどみながバタバタすることになる。そうこうして編集部の仕事が一段落すると、校正・校閲、そして製版と最終校正に版の出力、印刷、製本へと多忙のピークは順次移動していき、特に遅滞やアクシデントがない限り午後7時30分には「週刊競馬ブック」第一弾が出来上がる。そして航空便も地上便もひとまずトラックに積み込まれて会社から1分とかからない栗東インターから名神に入り、西へ東へと散っていくことになる。
「早いですね」 「早いでしょ」 「昔は写真はどうしていたんですか? 今はデジカメで撮ってネットで送ればすぐですが」 というような話をしていて、昔はどうしていたんだろう、思い出そうとしてみたが、写真担当でもないので、思い出せない。そこで当事者に聞いてみると「そんなもん、カメラマンが急いで帰ってきて現像してたんやんか」という当たり前の答であった。古くからの愛読者の皆さんはご記憶だろうが、昔のレースのグラフはモノクロだったので、メインを撮影してフィルムを持ち帰れば、それで何とか間に合ったのである。急ぐといっても事故でフィルムが届かなければ大変なことになるので、もちろん安全運転で急ぐわけです。フィルムの現物を持ち帰ることができる関西圏と違って、関東エリア、そして北海道や小倉などの遠隔地は現地で現像したものを電送していたようだ。北海道の新馬紹介や厩舎レポで使う写真はレース写真ほど急がないのでフィルムを宅配便で送っていたが、ときには週刊誌制作日の日曜の朝になっても届かず、調べてみると彦根の荷捌き所に誤着していたというヒヤヒヤものの例もあった。
キヤノンから初のデジタル一眼レフ「EOS DCS 3」が出たのが1995年7月、ニコンと富士が共同開発したデジタル一眼レフ「ニコンE2/フジックスDS-505」も同じ年の9月に発売された。この年がデジイチ元年といえよう。週刊競馬ブックのレース写真は翌1996年6月の安田記念からカラーになった。6月10日発売号巻頭のトロットサンダーとその鞍上で手を挙げる横山典弘騎手が記念すべき“デジタル”カラーグラフ第一号ということになる。そのころの週刊競馬ブックがお手許にある方は引っ張り出して確認していただけると一目瞭然だが、今から見ると何とも荒い画像で、当時は「デジタルカメラによる撮影で高速処理をしているため画像が不鮮明ですけど堪忍して下さい」という旨のことわり書きをしていたくらい。当時としては最高スペックの機材でも、なんせ「130万画素、16MBのメモリ」ですからね。画素数だけでいえば今どきのハイエンド・スマートフォンの10分の1ですわ。当時から16年半が経ってトロットサンダーより強いマイラーがそう何頭も出たとは思えないが、デジタルの世界の進歩の速さには改めて驚く。今はロンシャンやサンタアニタで撮影された精細な写真がメールやウェブストレージでサクッと送れるのが当たり前ですもんね。
写真がそのように進歩を遂げる一方で、文字原稿、テキストデータはどうであったか。通信といえば電話とファクス。私が入社したのは確か1988年だったが、その遥か以前、ファクスもないころは出馬表を送るのも音声で、電話にカプラーをかましてスピーカーにつなぎ、「9レース! 16番! インターグシケン! 武邦彦!」とかやっていたようである。そんな時代を経て登場したファクスは画期的なものだったと思うが、原稿用紙に汚い字で書かれた原稿はファクスを通してもやはり汚いままで、文書作成、原稿作成、そしてそれらの編集に本当に画期的だったのはワードプロセッサ、いわゆるワープロの登場だった。ワープロ自体は80年代後半には一般化しつつあったが、ひとり1台の時代になるのは90年代に入ってからだろう。小社でいえば、91年に日立から出た「with me」という製品がワープロ拒絶派を除く全員に与えられた。それ以外にも外注原稿の執筆者に合わせてシャープやパナソニックなどのワープロ専用機も用意していた。それも当初は汚い肉筆を印字する代わりにきれいなプリントを印字できるといったメリットしかなかったが、ワープロ文書をテキストデータに変換し、それを更に写植用テキストに変換できるようになると、これまでのアナログの「紙」からデジタルの「文字データ」へと変化する。これは大きな変化だった。まだインターネットが普及する前だったが、競馬場でのインタビューや次走へのメモがワープロ文書となって、電話回線につなぐキットを使って編集部に送られ、校正を経てテキストデータに変換されてという過程でメディアとしての紙はなくなっていったのだ。今はパソコン上の社内専用ソフトでネットを介して原稿はあっちに流れて校正され、こっちに流れて製版データとなり、そうやって文字を印刷物にする工程の省力化は果たされた。抵抗勢力としてのワープロ拒絶派は細々と2010年代まで原稿用紙という「紙」に籠城を続けたが、昨年後半には投降した。
そうはいっても最終的な製品は週刊誌にしても当日版にしても「紙」に印刷された文字。電子書籍にしても、いかに「紙」の代用たりうるかで評価される部分は大きい。制作工程で「紙」を排しながら、最終的に「紙」から離れられない二律背反は規模の大小を問わず、出版業界に当分つきまとうのかもしれない。何といっても紙は2000年以上の歴史を持つ現役メディア最古参なのだから。
ここまで書いたところで「おーい」と呼ぶ声がする。何ですか? 「社史編纂室に来いよ」とか言ってるぞ。わーっ!
【1月10日追記】週刊誌制作に写真電送機(ドラムがグルグル回転して読み取り送信するタイプ)を導入したのは1970年代末のこと。それ以前は小倉ならカメラマンが新幹線でフィルムを持ち帰り、新大阪駅で待ち構えて近くの本社に直行、そこで現像、プリント、製版カメラで仕上げるという工程だった。昔は大阪の本社ビルに印刷製本工場があったのです。今は栗東工場。また、東京方面からは最終の飛行機で持ち帰って伊丹から本社へ急ぐ綱渡りを続けていた。したがってその当時は週刊誌の記事自体が出来上がるのも26時とか28時だったという。北海道の写真は1週遅れで掲載していた。私が入社するはるか前のことです。
栗東編集局 水野隆弘