『ダービーへの可変階段』
御年90歳の谷八郎先生が小誌編集長に「これ、見なさい」と昭和46(1971)年のダービー馬ヒカルイマイのビデオを持ってきてくれた。多忙な編集長に代わってVHSのデ ッキに入れて眺めていると、編集部最年少で一口沼の馬券廃人Iくんが「昔の馬はたくさん使ってたんですねえ」と言う。ヒカルイマイは皐月賞勝ちが11戦目、間に挟んだN HK杯も勝ち、ダービーまでに12戦を消化していた。その場は「ラジオたんぱ杯(現ラジオNIKKEI杯)2歳Sができたり、サンデーサイレンスが出てきたりしてて、強い馬が 計画的にクラシックへ向かえるようになったから、使う数も減ったわけよ」とか何とかいいつつ、実際のところどうなのか、調べてみることにした。
で、坂井くん、頼みがあるんだが…。「はい、何でしょう?」かくかくしかじかで調べてくれんかね?「1986年までは遡れますが、それ以前は知らん」ということで、古い ところは埃だらけの週刊競馬ブックを泣きながらひっくり返すことになった。それで1968年までは遡ることができる。いくつかのデータの欠落はもはや本とは呼べない厚さ (15cmくらい)の「成績広報」で補う。1969年の25着馬(特)カミヤスだけは今でいうマル地。青雲賞に勝って中央入り3戦目にダービーを迎えている。2歳時に何戦している のかがどうにも分からなかったので、血統センターに泣きついたら7戦3勝と教えてもらった。これで手作業ながら抜けのないデータになったので伊藤さんありがとうござい ます。
最古の週刊競馬ブックが現存する1968年は、内枠から意表を突く逃げに出た9番人気のタニノハローモアが2番人気タケシバオーに5馬身差をつけて勝った。1番人気のマ ーチスは4着。タニノハローモアはダービーまでに17戦を消化しており、これはダービーまでの歴代最多出走優勝馬の記録となって今も破られていない。8月12日の札幌でデ ビューしたタニノハローモアはマーチスから9馬身半離された3着となり、続く19日、25日と札幌で3連闘。その後中1週4戦目の未勝利で勝ち上がった。阪神に戻って10月 1日の野路菊賞に勝つと、中2週のオープンで4着。そこから中1週で臨んだ11月3日の紅葉杯でマーチスをクビ差退けて勝った。次に中1週で出走した1300mのオープンを レコード勝ちすると、中1週のオープンも連勝。再び中1週の12月17日の阪神3歳Sでは1番人気に支持されたが、マーチスの後塵を拝し4馬身3/4差の4着に敗れた。ここま で2歳戦だけで10戦5勝。3歳を迎えるとさっそく1月15日のシンザン記念に出走して3着。その後、2月18日きさらぎ賞でマーチスから3馬身差の2着、3月17日春蘭特別 2着、4月7日の日本短波賞4着、4月28日スプリングS4着、5月19日皐月賞6着、6月16日NHK杯3着と、3歳になってからは1勝も挙げることなく毎月1走のペース でダービーに臨んでいた。あとから見れば、すっかり舐められたところで逃げを打った宮本悳騎手の賭けが成功したわけだ。もっとも、消化レース数に関しては、この年は東 京競馬場の改修によってダービーが行われたのが7月7日。通常より1カ月以上遅いので、どの馬も数を使っており、マーチスの16回、タケシバオー15回などを含めた19頭の出 走数の平均は12.05回にも達した。
今回の調査ではこの1968年が突出していた。それより前に遡ってどうかは分からないが、勝ち馬が史上最多出走数の記録を作っているくらいだから、たぶん平均でも最多で はないだろうか。そのような平均最多の年にあって単独で最多出走を記録していたのは6着のライトワールド。ダービーまでに22回出走していた。2歳6月25日の新潟でデビ ューして11戦1勝で2歳戦を終えると、1月4日の福寿賞から、1月14日の京成杯、2月10日ダートのオープンをレコード勝ちするまで3連勝。その後も連闘あり、中1週あ りで走り続けてこの記録を残した。3歳になってダービーまでで掲示板を外したのは皐月賞8着のみ、ダービーでも6着だから、これはこれで無事是名馬の典型と称えていい 。2歳戦が行われるようになった1946年(ダービーは1947年再開)から1967年の未調査の期間に、これ以上のレース数を重ねたダービー出走馬がいた可能性はある。しかし、 調べがついた限りでは、のちに障害で名を成す1962年22着タカライジンが21戦、1954年8着オーセイが22戦、1951年21着サチホマレが21戦だった。この記録に関しては22戦し てダービー6着健闘のライトワールドを暫定王者としておきたい。
その後、1970年代はインフルエンザによる日程変更があった1973年ロングエースの「七夕ダービー」を含め、出走馬全体の出走回数平均は9.84回だった。この10年は不思議 なことに勝ち馬の出走回数の平均が10.5回と全馬の平均を上回っており、1972年ロングエースの6回、1975年カブラヤオーの8回を除くと1970年タニノムーティエの14回をは じめ、いずれも10回以上の出走があった。勝ち馬以外の最多出走はロングエースの年の19着馬ミルフォードオーで、ダービーまでに21戦を消化していた。「昔の馬はたくさん 使ってた」のはまさにこの時代に当てはまる。
傾向が変わってきたのは1980年代で、全馬の平均が7.78回、勝ち馬が6.7回と、1970年代に比べて平均で2.06回、勝ち馬は3.8回も減少している。1981年の勝ち馬カツトップ エース(春2冠)が10回出走していた以外はすべて1ケタ出走だった。この時期は1984年がシンボリルドルフ5回、1985年シリウスシンボリ5回、1986年ダイナガリバー5回 とそれまでにない少ない出走数でダービー制覇まで上り詰めるケースが3年続いた。いずれもシンボリ牧場、社台ファームというオーナーブリーダーの馬で、若駒のときから 英才教育を受けたエリートが青写真通りの過程を経て頂点に至ったケースだ。実はここがターニングポイントだったのかもしれない。
1990年代は栗東所属馬の躍進と、トニービン、ブライアンズタイム、サンデーサイレンスの出現により、やはり日本競馬が大きく変化した時代。ただ、全体の出走回数はほ ぼ横ばいの7.62回。勝ち馬も微減の6.3回だった。1994年ナリタブライアンの10回が平均値を押し上げているとはいえ、1996年フサイチコンコルドの2回という最少記録ができ たのもこの期間。フサイチコンコルドは3歳1月5日の新馬戦でデビュー勝ちを収め、3月9日のすみれSで2勝目を挙げた。そこから3カ月近い間隔があってのダービー制 覇だった。少ない出走数で狙ったレースを勝つのは名門小林稔厩舎のお家芸ではあったが、この馬の場合は体調が安定せず、やむを得ず3戦目でのダービーという面もある。 実際、5月の2週目と3週目には速い追い切りができておらず、苦心を伴う仕上げであったことは想像に難くない。また、それまで漸次縮小されてきていたフルゲートが1991 年の馬連導入に伴い1992年から18頭に落ち着いた。ダービーに限らずクラシック出走権の確保が簡単ではなくなってきたのもこの時代だ。
2000年代はサンデーサイレンス時代の終わりと、2004年のメリット制導入により厩舎間競争が本格化した時期。全馬の出走回数の平均は減少して6.90回、勝ち馬は1990年代 と同じで6.3回。2006年メイショウサムソンと2008年ディープスカイがそれぞれ10走して平均を押し上げているので、大体6回弱〜5回強が実質的な勝ち馬の平均といえるだろ う。目立って少なくなっているのが最多出走回数で、1990年代でも1991年3着イイデセゾン、1996年3着のメイショウジェニエがいずれも17回の出走を数えていたが、この期 間は2005年12着シルクネクサスの14回、2002年18着サンヴァレーの13回が目立つ程度。これは全体の稼働数が増えて、条件戦も重賞も出走するまでが大変な近年の傾向を反映 しているのかもしれない。それを受けて2010年代は(まだ3年とはいえ)全体で6.11回、勝ち馬が6.0回とそれぞれ減少傾向が明確になった。
シンボリルドルフ、シリウスシンボリ、ダイナガリバーらの80年代の名馬が先鞭をつけた「描いた青写真通りに挑むダービー」の傾向は出走回数を見るだけでも確実に定着 してきているようだ。そこへサンデーサイレンス系のように2歳時の助走期間を経て3歳での勝負を計算できる血統が現れたこともその流れを後押ししている。そうはいって も小倉デビューから頂点に上り詰めたメイショウサムソン、未勝利脱出に6戦を要したディープスカイの出現も最近のことだから、多様性がまったく失われたわけでもない。 さすがにダービーに限ってはライトワールドのような戦績の馬が現れる余地は今やほぼないと考えられるが、ときにはそういった異端児も出てこないかとは思う。ちなみにダ ービー後のライトワールドは8月24日のオープンで復帰(2着)するとコンスタントに走り続け、ダービー後8戦目(!)の菊花賞で7着、12月14日のオープンは右前の裂蹄 で取り消したものの、4歳時は1月5日中山の金杯からスタートして20戦、日経賞、京王杯オータムH、オールカマーなど4勝を挙げた。5歳時も6戦して東京新聞杯2着、 京王杯スプリングH3着、京都記念2着。通算57戦12勝の成績を残して種牡馬となった。
現時点で3歳オープンではキンショータイムの12戦が最多。11戦にスマートアレンジ、タプローム、マンドレイクがいる。今週のニュージーランドTに出走予定のモグモグ パクパクとカシノピカチュウは現在10戦なので、もしこれらがNHKマイルCを経てダービー出走権を得て出走してくれば、12戦を消化してのダービーとなる。
栗東編集局 水野隆弘