『真似とパクリ』
何年か前のこと。ある漫才師が某女性シンガーを評して、 「何某のパクリ」 と口にして話題になりました。 言わんとすることはわからないではなかったのですが、でも厳密には“似ている”ことと“パクリ”は別モノなんじゃないか、なんてことを思った記憶があります。 いわゆる「パクリ」は、手法とか方策をそっくり踏襲する“行為”を指すのであって、似ている“スタイル”そのものを指すものではないのではないか、と。 更に、それを言うなら漫才のような先達の芸のスタイルを踏襲する行為は、どういうふうに捉えればいいのか、なんてことまで考えるきっかけにもなりました。そこから更に派生してパロディとパクリの違いや、オリジナルと贋作については?等々…。
そんなことを思いつつ、周りを見渡すと暗然たる気分になってしまいます。 真似る行為が、パロディという作品ジャンルに昇華するのではなく、単なるパクリに変容してきた、そんなふうに感じられてならないからです。
古今東西、どんな人であっても、およそ先人の技や芸を身につけようとしてまず最初にやることのひとつに“真似る”行為があるでしょう。学問を修める際に基礎を学ぶ行為も既に確立された型を反復することに他なりません。「学ぶ」は「マネぶ」と読む、こんなことが言われる所以。 このマネて学ぶ作業の際に、欠かせないのはプロフェッショナルな先人達です。 先の漫才や落語という話芸や、能、歌舞伎といった古典芸能、また音楽や絵画、建築その他の芸術全般、或いはips細胞の研究といった先端科学の分野でも、例外なく、と言っていいほど“師”と呼ばれる人達が存在します。 単に真似るだけでは、自分の狭い意識空間にとどまってしまい、新しい発見や思考パターンは生まれにくいもの。広い視野を持てずに想像力は養われず、次に進むべきオリジナルな世界になかなか辿りつくことはできません。普遍的な何か、なんてとてもとても。 このあたりの問題について、的確で有効な対処法や方向性を示してくれるのが経験豊富な“師”なのではないか、という仮説は成り立ちそうです。 ということは、“マネ”る行為が単なる“パクリ”に変容してきた印象があるのは、しっかりと導いてくれる先達がいなくなってしまったせいなのでしょうか。だとするとちょっぴり嘆かわしく感じられます。まあインターネットで何でも調べられる現代では、学術的なことを教えるという意味での“先生”の存在は、既に影が薄くなっているのかもしれませんが…。
それはともかくとして、このオリジナルと真似事の議論の際に、そもそもの話として上がるのが、 「今の時代に真のオリジナルなんてどこにあるのか」 ということ。 これだけ情報が多様化して、あらゆることが簡単にコピーできる時代。確かに、真のオリジナルを探し求めることは難しいかもしれません。
しかし、初めから「パクッてやろう」として生み出されたモノと、試行錯誤しながら唯一無二の“何か”を創り出そうとして出来上がったモノとが同じであるとは考えにくい。結果として同じような、似たようなものになったとしても、人に与える影響は違ってくるのではないでしょうか。
それで思い出すのが、古典落語の『青菜』と呼ばれる演目。 もともと上方の…いや来歴はさておき、ある植木屋がどこぞのご隠居夫婦の言葉のやりとりに感心し、それを自分の女房とでマネしてみよう、として失敗する。ま、言ってみれば付け焼刃の行為はうまくいかない、というシニカルで教訓めいた滑稽話。 この話、昨今のパクリとは全然違う部分と、そっくりな側面を有します。 全然違うところは、 『青菜』の場合は市井の夫婦の暇つぶしの真似事による失敗譚ですから、まったく罪はないですが、昨今のパクリは対峙する相手を簡単に欺いてやろう、という悪意を持った下心が透けてみえること。 そしてそっくりなところは、 “付け焼刃ではすぐにアラが見えてしまう” ということ。
表面だけなぞって体裁を整えようとしても、すぐに剥がれてしまう。たとえ剥がれなくても、中身の伴っていない様子はわかるもの。そういう類の物、インターネットの世界では容易に見つけることができます。 どこかから引っ張ってきた情報を材料にして、御託を並べて論を展開させた文章とか、何かのテレビ番組に似せて商品を紹介した動画とか。場合によっては、本やテレビのタイトル、CMのコピーをそのまま引用してる内容のモノもあります。 インターネットにおけるこういう話は、要するに著作権の問題に発展していくのかもしれません。例の、アップルの創業者がやってのけたことのひとつが、それに関連してますもんね。いい悪いは別にして、確かに世の中は変わりました。
ですけどね。
インターネットの普及とパクリが当たり前になったことの関連性は専門家に任せるとして、パクる人達、すなわち贋作者が大手を振って闊歩することは、唯一無二の作品を創り出そうと努力している真のクリエーター達の創作意欲を削ぐことになりかねませんか。 最も憂慮されるのはそこだと思っています。 作品を介して人に何かを伝えよう、といった思いは同じ。その創作者としての矜持が徐々に失われていくのではないか、と。これは文化的な大きな損失につながりませんか。 “著作権は存在しない”なんてことが言われる国があるようですが、その国の芸術家達は、どんな思いで創作活動を続けているのか…。
パクリの蔓延──。 時代が変わったのだから、と、放置しておいていい問題なのでしょうか。諦めるしかない社会現象なのでしょうか。 重要な課題として、今後も様々な角度から考察を続けていきたいと思います。
美浦編集局 和田章郎