『あまロス』
朝日新聞の『天声人語』と読売新聞の『編集手帳』の“読み比べ”については、以前、当コラムで書きました。紙の手触りやインクの匂いなどを感じながらの“読み比べ”を推奨したつもりでしたが、そう書いた自分が、このところ『編集手帳』の方はウェブで読むことになっています。 そんなことを今週号の週刊誌“狙い馬”のコーナーで掲載したまさに21日朝。『天声人語』を読もうと1面下に目を移して「うそっ!?」と思わず声を上げてしまいました。
コラムニストの天野祐吉さんの訃報が掲載されていたのです。
詳細は避けますが、実のところ以前ほど朝日を購読しなくてはならない理由は弱くなってきていました。なのに購読を続けた理由のひとつは、水曜日の朝刊に掲載される『CM天気図』が楽しみだったからに他なりません。それがもう読めなくなるのかと思うと、とんでもない喪失感がありました。 だから、断るまでもないですが、タイトル『あまロス』の“あま”は例のドラマのことではなく、天野祐吉さんの“あま”のこと。このアイデアは私のオリジナルではなく、昨日の『天声人語』から頂戴したものです。
天野さんと言えば雑誌『広告批評』ですが、若い頃は世の中のこと全部を見据えてしまうかのような鋭い風貌で、怖いくらいに思ったもの。それがいつのまにかいい感じのおじいさんになって、広告という媒体を通して世評を論じる軽やかな“うるさ方”のようになられました。いや、こちらが勝手に怖いイメージを抱いていただけなのかな。 ともかく、わかりやすく偉ぶらない文章でもって社会全般に鋭い目を向ける。もともと大好きな文体でしたが、当コラムを担当するようになってから、余計に意識するようになりましたか。それだけに、やっぱり“指標”を失ってしまった感じがあります。 必ずしも文体は人柄を表すものではない、と思いますが、でもそういう人もいらっしゃるんだな、なんて感じさせるお方だったと思います。 本日は水曜日。おそるおそる紙面をめくると、おそらく担当されていた編集部の方の手になるものと思われますが、『CM天気図』のスペースに追悼記事が掲載されてました。寂しいけれど、何だか嬉しかったなあ。「偉い!朝日」と、未熟者らしく、それこそ偉そうに思ったことを白状しておきます。
さて、「もともと好きな文体」で「意識する」なんて書きましたが、このように会ったこともなければ話しすらしたこともない人物から、小さくない影響を受けるということ、ありませんか。歴史上の人物ですとか偉人とかの類ではなく、同時代に生きている人で、ですよ。 作家さんや役者さん、ミュージシャンとか画家などのアーティスト、スポーツ選手でもいいし、学者さんやお医者さんというケースもあるかもしれません。 自分のことで言えば、すぐ思いつくところで作家の山口瞳さん、映画の淀川長治さん、ムツゴロウこと畑正憲さん、野球の野村克也さんとか、でしょうか(山口、淀川両氏は亡くなられましたが)。勿論他にもたくさんいらっしゃいますよ。ですが結構な人数になりそうなので、一人一人あげるのはやめておきます。 こういう人物を何人持てるかは、とても重要なことじゃないでしょうか。たまに「自分は誰の影響も受けてない」と豪語する方がいらっしゃいますが、実際のところ、そんなこと起こりえますか?可能性としては、才能溢れる特異なアーティストか、何かを勘違いしてしまった幼稚な…要するに若気のいたりで生き続けている人かのどちらか、くらいしか思いつきません。 まあね、ネットで検索すれば何でもわかる時代。「特定の個人から影響を受けるなんてバカバカしい。前時代的な発想だよ」という指摘があるんでしょうか。ネットに書き込まれていることも、今のところはまだ人間が関わっていると思いますが…。
「万巻の書を読み、万里の道を往く」 を実践したのは明治の文人画家、富岡鉄斎なのだそうですが、いろいろな知識を身につけておいて、なお多くの人と出会い、様々なことから影響を受けて知見を広める。それらすべては自分に返ってくるのでしょう。万巻を読んで万里を往くまでは無理としても、そういう理想に近づければ、と思います。
そう言っておきながら、ですが、“生きている誰か”を失くしてしまう寂しさというのは、長く生きれば生きるほど増えていくのが必定。どうやって折り合いをつけるのかは難しいですよね。こういうのも生きていくことの…んん?この内容は“天野流”からはほど遠かったです。 やっぱり、まだまだ学ぶべきことが多かったなあ。 今回は『あまロス』による少しばかり寂しい思いを紛らわそうとして、他愛のないことを考え、思いつくままに書いてしまいました。すみません。あ、「今回は」というより、「今回も」だったかな?かえすがえす申し訳ございませんでした。
美浦編集局 和田章郎